機動戦艦ナデシコとはなんだった(なんなの)か?
〜物語における作風・話の方向転換並びに脇役の扱い方についての疑問

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「おバカからシリアスへ」これってどうなの?
おバカからシリアスへの転換の代表といえば、やはり『大長編ドラえもん』になるのだろうか? 普段はかっこ悪いのび太が映画になるとかっこよくなり、ジャイアンとスネ夫はいいヤツになる、 あの現象。『うる星やつら』『パトレイバー』『攻殻機動隊』も押井守氏の手にかかれば超シリアスな 映画になってしまう、あの現象。だが、これらはまだいいのだ。いちおう、別シリーズなのだから。 ギャップがまた楽しいしね。問題があるのは、ひとつのシリーズでこれをやってしまう場合だ。
私が初めて観た「マニア向けアニメ」(注1)は、 『無責任艦長タイラー』 であった。『新世紀エヴァンゲリオン』を私に教えてくれた友人が、 「これも観とけ」とビデオを貸してくれたのだった。『タイラー』は、前半軽いノリだった。 タイラーはただのバカ艦長だった。駆逐艦「そよかぜ」のクルー達もそんなタイラーに辟易していた。 だが、後半に入るとそのタイラーの生き様がいかに素晴らしいかを視聴者に訴えるような話に なっていった。まるで漫画『奇面組』最終回 (注2)のように。続いて、大学に入り、いきなり出来た友人が、『天地無用!』を 持っていたので、観ることになった(ちなみに『天地』上映会は先述の「『エヴァ』を私に 教えてくれた友人」宅でも行われたのだが、当時の私は「おもんない」と言って寝てしまった のだった…。人間、成長するものである)。これまた、最初の方は「『うる星やつら』か?」と 思わずツッコミを入れてしまうようなノリだったが、神我人が出てきてから急にシリアスになった。 これにより、私は「アニメってそういうものなのかしらん」とかいうわけのわからん知識を持つことに なった。その後、いくつかのアニメを経て(何観たか覚えてないっす。すまぬ。)、私は遂に 『機動戦艦ナデシコ』に出会った。
「女版タイラーが艦長で、『そよかぜ』が凄い戦艦になって、そこにシンジが乗ってるって感じ」 と「『エヴァ』を教えてくれた友人」に紹介された『ナデシコ』だったが、そのノリは、まだまだ アニメ経験値の浅かった当時の私には「アニメアニメした雰囲気(注3) としか形容できないものだった。正直なところ、途中何度か脱落しかけた。ビデオで一気に観る分 には問題ないのだろうが、毎週30分ずつ観るにはしんどかったのだ。もし脱落していたら、 その後の感動を見逃すことになっていたわけで、それは運や縁がなかった、と言ってしまえば それまでなのだが、なんかそれって寂しいっしょ?だいたい、詐欺ですやん、そんなん。
そもそも何故にそのようなストーリー展開にするのだろう?理由はいろいろ考えられる。 ギャップをつけて感動を大きくするため(『ときめきメモリアルドラマシリーズ』でこの手法の破壊力を痛感した)、そうしないとノルマの話数分作れない、 作り手の気が変わった、などだろうか?また、偏見だが、「その方がとっつきがいいから」という 考えもあるかもしれない。だが、理由はどうあれ、それによって心が離れてしまってはお互いに もったいないと思うのだ。そこで、解決策を考える。まずは、話数を減らすという方法。 実はこれは、作風転換手法をとらない作品にも言えることだ。ずっとシリアスでも、展開がチンタラ しているとやはり辟易してくるのだ。26話もたないのなら13話にするとかすればいいのである。 次の手法は、ハナから分かりやすい伏線を張っておく、というものだ。話数減らしたら稼げない、 というのであれば、毎回ちょっとずつ、「こいつぁひょっとしたらシリアスな話になるか?」と 思わせるような伏線を張っては種明かし、というシナリオ展開にすればいいのだ。 メリハリをつける、とも言うのだろうか。
などと外野は好き勝手言ってられるが、やはりいろいろな事情があるのだろうなあ。 ファンは結局我慢するしかないのか?弱小球団を「いつかは強くなる」と夢見て応援し続ける ように…。

注1:この表現は雑誌『アニメ批評』のものを引用しました。どう表現したら いいかよく分からなかったので。ニュアンスは「子供向けじゃなくて、万人向けでもないアニメ」 ってことなんでしょうかね?

注2:『奇面組』は、変態キャラが多数登場する学園ギャグ漫画だったが、 最終回で「こんなヤツらでも必死に生きてるんだからみんなも頑張って生きようぜ」的なことを 言って、読者をうならせた。

注3:この表現を私が初めて使ったのは当時発売された『サクラ大戦』をプレー している時だった。また、この『サクラ』も序盤と終盤でかなりノリに差があった。

*ここからはナデシコのみの話題になります

「アキトとユリカの恋物語」から「ルリちゃんの成長物語」へ
「『ナデシコ』は、学園ラブコメの舞台を宇宙戦争にしたようなもの」と、当初『ナデシコ』の 製作者の方々は言っておられた。アキトが、大好きな『ゲキガンガー』の悪いところに気付き、 それでもなお『ゲキガンガー』を愛した自分の気持ちを信じて、大人になって、ユリカと結ばれる。 『ナデシコ』とはそういう話だった、ハズなのだが…無視できない存在が現れた。ホシノ・ルリ 人気である。あくまで私の推察だが、当初、スタッフの方々はルリちゃん人気は予想していたかも しれないが、ルリちゃん主役で映画を作る予定はなかったのではないだろうか?火星遺跡の謎を 明かすつもりがあったのか、今もなおあるのか、などは全く分からないが(ゲームは却下)、 とにかく『劇場版ナデシコ』のシナリオは、そういったSF設定やら「アキトとユリカの恋物語」 といった要素を全て無視したかのような内容だったように感じる(TVの最終回でルリちゃんが 思い出について語るところは、当初から予定にあったのだろうか?)。ルリちゃんの成長を描く ために、アキトとユリカを傷付けた事は、TVシリーズ開始時からの構想だったのならまだいいが、 そうでないのならば、アキトとユリカのファンにどう説明するのか…。「空白の三年間」を描いた 小説で、「アキトとユリカを失って、ナデシコクルーはモラトリアムから抜け出し、自立することが 出来た」というようなことを言っていたが、それは最初からあった構想なのだろうか?だったら凄い 作品になるのだが…。「人は変りゆくものだ」とか、そういうことを言いたかったのは分かる。 アイドルや漫画家になった旧ナデシコクルー達を見て、ルリちゃんもそれが分かっただろう。 だが、そのこととアキトがどっかへ行ってしまうことはイコールなのか?第一、これじゃあ 「TVはなんやってん?」てことにならへんか?所詮、映画のアキトとユリカは脇役なのか?
主人公がどうにかなれば、製作者の主張を訴えられれば、それでいいのか?やってしまったものは しょうがない。だが、本当に、TVシリーズで「アキトとユリカの恋物語」を描いていたのであれば、 『ナデシコ』はまだ終わっていないハズだ。何より、火星の遺跡の謎が残ってるわけだし。 それから、今更「エリナとアキトは一時期『男と女の関係』だった」って言われても困るんですけど …。