俺と虎の18年

俺と虎の18年TOP

第五回 野村克也の意地
98年末。タイガース監督に就任したのむさんは、打の軸に新庄・大豊、投の軸に藪・川尻を据え、 打の有望若手に濱中、投の有望若手に井川を見出した。しかし見事四番に成長した新庄は2000年オフにFAで メジャーへ、大豊はフロントとの確執から退団(その後ドラゴンズへ入団)、藪・川尻は相変わらずの ていたらく。濱中・井川も伸び悩み、残ったものは矢野と秀太だけという余りにも苦しい状況、 たった二年で野村構想は完全に瓦解した。2001年、再びゼロからの出発を余儀なくされた のむさんは、しかしながらそれが故に後の星野政権に多くの選手を残すことになる。 F1セブンを結成し、赤星・藤本・沖原らを輩出。また、二年間鳴かず飛ばず だった井川・濱中の投打期待の若手もようやくこの年に開花。ゼロからやり直そうという首脳陣の姿勢が 二人を我慢して起用させたと思う。そしてベテラン桧山が遂に打棒開眼、自身初の三割を打てば 大ベテラン広澤も見事に復活を遂げた。確かにチームは最下位に終わったが、来季に期待を抱ける 内容だった。和田の引退試合の後、スワローズ胴上げを三試合に渡って阻止し、確実に彼の「虎の意地」は 若手に受け継がれた、と思った。三年かけてフロントもほぼ一新した。これからだった。 しかし世論の大半は野村下ろしを喝采し、さらには夫人の逮捕。 遂に野村タイガースは終焉を告げた。以上が、超端的にまとめた野村タイガースの三年間である。 とにかく、未だに、野村政権についてはタイガースファンの中でも大きく認識が分かれるところだ。 結果主義の人間や「野村は暗いから嫌い」と言う人には何も言うべきことはないのだが、 その三年間並びにそのさらに前をあまり知らずに、「星野政権になってから強くなった」ということしか認識 していない人には、私は口を酸っぱくして以上のことを言い聞かせてきた。しかし、タイガースが勝てば 勝つほど、この説明をする機会は増え、正直、疲れてしまった。やはり親野村派としては、野村政権の遺産 などないかのような発言をされると、ムッとしてしまうのである。せっかくタイガースが強いのに、なんで 自分がいちいち不快な気分にならなければならないのか?そう思うとバカバカしくなり、もういちいち 説明するのも止めてしまった。おそらく、のむさんのおかげだと思っているタイガースファンは、全国に 2割くらいはいると思う(ホントは3割くらいいると思いたいが)。その人達がそのことを忘れず、何より のむさんによって輩出された選手達がそのことを忘れなければ、それでいいのじゃないかと思う。 いつかまたタイガースが弱くなった時に、泥をかぶって種を蒔いてくれる、そういう人が必要であることを 何人かが覚えていれば、それで大丈夫だろう。だから、今、あえて私はのむさんに言いたいことがある。 いや、実は既に当時のタイガース日記などで何度も言っていることなのだが…「それでもひつこく選手に 言い続けてほしかった」。のむさん自身が言う通り、のむさんは選手を大人扱いし過ぎた。 自分に質問しにくる選手にはじっくり教えるが、質問しに来ない選手は一切相手にしない。 今岡や藪との溝はついぞ埋まることがなかった。この二人に関しては、私も「トレードに出せ」とまで 思っていた(いや、藪については今でも思っているが(笑)のであまり何も言えないが、他の選手達、 例えば藤本や秀太がフライを打ち上げる度に、「なんで打ち上げるねん」と言ってほしかった。 練習不足で速い球が打てないなら、練習しろと言ってほしかった。いや、俺が監督なら、何百回何千回 何万回だって言ってやる。タイガースが好きだから。何回だってタイガースを叱ってやれる。 のむさんはあくまで「プロ」であることにこだわった。しかし、 「プロ」であることよりも、もっと言えば「プロ野球」よりも、「タイガースへの愛」 が優先される程、優先しなければならない程、タイガースとはどん底のチームだった。 外様ののむさんにそこまで期待するのは確かに酷だったかもしれない。 だがしかし、それでもやってほしかった。それほど私はのむさんの野球理論に惚れ込んでいた。 92年、野村スワローズとの優勝争いに敗れてから、ずっと。 あの新庄剛志をメジャーリーガーにしてしまった、その理論に。
かくして野村克也はタイガースを去った。しかし去り際に残した言葉が、再び奇跡の監督交代劇を呼ぶ。 次回、いちおう最終回予定、「これしかなかった」に続く。(2003/9/8)