俺と虎の18年

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第二回 公務員並の安芸キャンプ、ファンに試合中に怒られる選手達
タイガース安芸キャンプを訪れた評論家は皆、口を揃えてこう言った。「(去年)最下位だったのにここが 一番練習量が少ない」タイガースが負ける度、私の父はこう言った。「練習してへんねやろどうせ」
「練習量が多ければいいというものではない」というのは、長年に渡って広島東洋カープが証明してきた ことである。だが、少なくとも、カープの選手達は、投げられたハズの速球が年々遅くなることもないし、 速い球を打ち返すことが出来ないなどという情けないこともなかった。そしてまた、阪神タイガースも プロ野球チームであった。「カープ程ではないにせよ、練習してないことはないハズだ。きっと練習の 仕方が悪いんだ」と私などは思っていた。初めて安芸キャンプへ行くまでは。
98年2月。関川・久慈を放出、矢野・大豊を獲得し、助っ人にアロンゾ・パウエルを獲ってくるという どう見ても暴挙にしか見えなかったオフを越え、私とトラキチフレンド達は初めて安芸キャンプを訪れた。 ドラゴンズファンの友人に「大豊もパウエルも賞味期限切れてるかも」と言われ不安を隠せずにいた我々は、 その不安を払拭できればという願いも込め、安芸球場へと向かった。しかしそこには、 恐るべき光景が広がっていた。練習中、ほとんど声を出さない選手達。17時には帰る選手達。 居残り練習をするのはベテラン・和田と練習の虫・大豊のみ。和田は引退しコーチになってから、この辺の ことについて話していたことがある。「自分が入団した時は、バースや真弓さんや掛布さんや岡田さんや 平田さんがいて、相当練習しないと一軍にも入れないと思い、だから練習した」凄い先輩がいれば、 自ずと後輩達も努力をするということだろう。そして和田もまた、凄い先輩であったハズなのだが、 地味でインパクトに欠けた。また彼は「俺の背中についてこい」タイプだった。 和田自身も、次のように懐古している。「自分が現役の時は、チームメイトは確かに仲間でもあるが、 ライバルでもある。自分の技術を盗まれるのはかまわないが、自分から教えてやろうという気には ならなかった」タイガース屈指の選手の芸風は若手には受け入れられず、その選手自身も若手に技術を伝授 しようとはしない。気が付けばチームは、意味無く外野フライを上げまくる小兵選手で溢れかえっていた。
タイガースがいかにぬるま湯キャンプを送っていたかというエピソードはまだまだある。例えば新庄が メジャーに渡ってから述べたことがあった。「タイガースにいた頃は、最悪でもスタメンには入れると 思ってた」新庄程の才能があれば、練習なんぞしなくても、スタメン8人には食い込める。それが当時の タイガースだった。他には、坪井(現・日本ハムファイターズ)ブチギレ事件というのもあった。 98年、ルーキーだった坪井は、野村政権時代にその時のキャンプのことをこう振り返っている。 「ああ、そりゃこのチーム弱いな、と思いました」そして2001年、野村政権最後になった年。 新庄が抜けた外野の穴を誰が埋めるのかが話題になっていた。 普通のチームであれば、我こそはと名乗りをあげ、休日返上で練習などしてアピールするのであろうが、 この年、休日練習をした選手は、坪井とカツノリだけだった。しかもこの二人は、 それまでの年もずっとそうしてきていただけで、この絶好のアピールチャンスだった年ですら、 「じゃぁちょっと頑張るか」と思って休日返上で練習してみる気概を持った選手は現れなかったのである。 キャンプ最後の休日。野村監督に「自分のことしか考えない選手はいらん」とまで酷評された坪井が、 「お前ら、最後の休日くらい、練習せぇや!!」と皆に呼び掛けた。しかしたかだか一日したところで 何が変わろうものか。結局、新庄の後釜に座ったのはこの年ルーキーだった赤星だった。 野村タイガースが三年連続で最下位になった原因はいろいろあるが、そのひとつが、野村監督も最近 言っているが、選手を大人扱いし過ぎたことである。のむさんは練習を無理強いしなかったし、 訊きに来ない選手に技術指導をするということもしなかった。必要ないと本人が思っているなら必要ない。 このスタンスが、結局、配球や弱点を教えられても実行出来ない選手を増産する結果となったのだった。 余談だが、よく「タイガースを出て行った選手は活躍する」と言われる。これの絡繰りは至極簡単で、 要は他球団に行けば単純に練習量が増えるため、タイガース時代よりいい成績になるだけの話である。 しかし悲しいかな、長年の怠惰が祟り、基礎が出来ていないためか、長持ちせず短年で活躍時期が 終わってしまう選手も多い。今季、時々ノリに代わりバファローズの四番に座っていた北川や、 ブルーウェーブで活躍している塩谷などは、タイガース時代、カツノリより打てない右の代打として、 我々ファンを絶望させ続けたものである。 タイガースの練習の凄さを物語るに相応しい、究極のネタを最後に。それは、ブルーウェーブからやってきた 本西が、タイガースを去る時に残したコメントである。「練習は何のためにやってるのかわかんないし、 なんでこいつが?って選手が一軍にいるし、こんな球団みたいことないよ!!」名将・上田、仰木の下で 野球をし、優勝を味わってきた本西にとって、阪神タイガースとは、異次元の球団だったのだろう。 のむさんの下でプレーさせてやれなかったことが悔やまれる…。
練習からしてこの様だったタイガース選手達が、試合になればどうなるかなど、想像するまでもない。 これは練習試合中だったか、既にオープン戦だったか忘れたが…安芸球場にて、気の入っていないプレー をし、さっぱり声を出さない選手達に、遂に一部応援団がキレ、こう叫んだ。 「お前ら、せめて声くらい出せよ!!」ファンが選手に飛ばすヤジは数多くあるが、これはヤジではない。 親が子を叱るように、教師が生徒を叱るように、ファンが選手達を叱ったのである。 とにかく、当時のタイガース選手達には表情がなかった。 覇気がなかった。負けても悔しがらない。失敗したら、ニヤつくか下を向くか首を傾げるか。 初球ど真ん中のストライクを振らない。飛び込めば捕れる打球に飛び込まない。すぐに諦める。 プロ野球選手を目指す少年達に、決して見せてはならない集団。それが、阪神タイガースだった。 最後に、当時のタイガースの選手達のモチベーションを究極にまでに表現した語録を紹介したい。 98年、前半戦終了間際。甲子園でのドラゴンズ戦で、ドラゴンズのセンター大西がダイビングキャッチを した時、実況の武周雄アナはこう言った。「これが目標のあるチームのプレイです!! 私達いったい前半なにやってたんでしょうか?」タイガースは前半戦終了前にして、 既にぶっちぎり最下位だった。対してドラゴンズは、ベイスターズと熾烈な首位争いを繰り広げていた。 その事実を見事浮き彫りにした名実況ではあったが…武さんは当然仕事で実況をしている。我々ファンは、 趣味で応援しているだけだ。だが、なのに、武さんにこう実況させたタイガースの士気のなさ、 目指すものの見えてこなさ、先に広がる暗雲は、相当なものであったと言わざるをえない。
ぬ…突然文体が変わって申し訳ないが、第二回にして基本的に書きたかったことは全て書き尽くして しまった。要は「タイガースがプロ野球チームと呼ばれることすら憚れる程のクズ球団であったこと」を 述べたかったのですが、はて、次から何を書こうか。当然、どのようにしてこのクズ球団が変わったのか は書くつもりなのですが、いきなりそこに行ってしまっても面白くないしな。とりあえずタイトル通り、 自分とタイガースの18年間について触れてみるか。なんでこんなクズ球団をずっと応援してくることが 出来たのか。まず手始めに、助っ人特集でも組みますか…もう既にそういうコーナーあるんだけどねウチ…。 てなわけで第三回に続く。(2003/9/2)