ワンダと巨像とICO

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2005年12月27日、無事『ワンダと巨像』一周目クリア。その勢いで書いた感想みたいなもの。
まずは前作『ICO』との比較論から。 『ICO』の物語は「生け贄として古城に放り込まれたイコ君がそこで出会った謎の少女ヨルダさんを連れて古城から脱出する」という超絶シンプルなもので、実際ゲーム上で物語が展開する場面は最初と最後だけでした。 道中はひたすら古城の中をヨルダを連れて走り回ってパズルを解いてたまに敵を追い払うだけ。 『ワンダ』の物語もこの超絶シンプルさは相変わらずで、「生け贄として命を失った少女を蘇らせるべく16体の巨像を倒す」というもので、これまたゲーム上で物語が展開するのは最初と最後だけで、道中はひたすら巨像を見つけては戦うだけ。
こう比較してみると、両作品共に「ゲームの部分がメインで物語は後から取って付けたようなもの(昔のゲームみたいやな)」と思われるかもしれない。 しかし、『ICO』は「それでも物語とゲームが見事に融合していた」と言い切る人が多いだろう。 何故かと言うと、「ヨルダさんと古城を脱出する」という物語とゲーム中の行為が完全にイコールだったからだろうし、プレー内容そのものがボーイミーツガールジュブナイルファンタジーアドベンチャー(意味わかんねぇ(笑)と言えるからだと思う。 一方『ワンダ』はぶっちゃけ、「前後の物語は不要」とまで言い切れる程、巨像とのバトルが圧倒的存在感を放つ。 『ICO』のボーイミーツガールな甘酸っぱさを期待して『ワンダ』をプレーすると痛い目を見る。 確かに『ワンダ』も最初の方は最後の一撃を喰らわせて倒れていく巨像を見て心が痛んだものだが、だんだん向こうも容赦なくなってくるのでこっちもマジになってくる。 倒した時には「いい試合だったぜ・・・」などと呟きかねない勢いだ。 そう、『ワンダ』は完全に知恵と勇気と力がぶつかり合うガチンコバトルがメインであり、そこには「少女を蘇らせる」という当初の目的を忘れさせるヤバさがある。 『ICO』も『ワンダ』も「ゲーム部分がメインで物語はおまけ」というスタンスは同じと思われるが、「それでもあえてカテゴライズする」のであれば、『ICO』は「物語」であり、『ワンダ』は「ゲーム」だと思う。
以上比較論終わり。
というわけで『ワンダ』の話をしますが、上記のように私は思ってますので、もうゲーム部分だけの話をします。 とにもかくにも、「巨像の攻略方法を考えてそれを実践して倒す」という「ゲーム的展開」が溜まりません。 圧倒的な大きさを誇る巨像を前に絶望から始まるバトル、それを乗り越える楽しさ。 巨像を見た瞬間に攻略法が閃き、それが見事にハマった時の快感。 あれこれ試してるうちに全然違う方法を思いついてそれが成功した時のがっかり感(でも途中で気付いた自分を褒める(笑)。 そして、クリア後は、他の人の攻略法を見て感動。
・・・多分ね、FC世代じゃないとクリア出来ないと思うよこのゲーム(笑。 茂と秀夫、要は『ゼルダ』と『メタルギア』の洗礼を受けてる人間じゃないとクリアできない気すらする。
惜しいのは、16体も巨像はいらなかったかな、という点。 やはり終盤は「このパターン前もあった」とか「単に要求される操作がウザイだけ」というのが続いてやや食傷気味でした(順番変更可能なら問題ないかもしれませんが)。 これが8点の理由。 というわけで『ICO』から3年待った甲斐がありました。 十二分に堪能しました。 (2005/12/27 日記より転載)