タイガース栄光のV戦士&思い出の選手

*本コーナーは、今季の主なタイガース選手を振り返り、更にその背番号から思い出される選手を振り返るコーナーですが、その背番号から思い出される選手がいない場合、今季の主でない選手の背番号から思い出される選手を振り返ることもあります。

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背番号00
田中 秀太「気が付けばユーティリティ」

田中秀太が一躍脚光を浴びたのは、99年、野村政権一年目だった。 94年高卒ドラフト3位で入団した秀太は、四年間さっぱり芽が出なかった。 97年・98年の吉田政権時に「よっさんはせめて自分と同じ遊撃手である秀太を育ててから辞めて欲しい」と 願ったが、サッパリ。しかし野村監督に短いバット、いわゆる「こけしバット」を勧められ開花。 広い守備範囲も素晴らしく、いつの間にか二塁のポジションをゲットしていた。 が、しかし、その後伸び悩み。2001年のF1セブンに入れてすらもらえず、藤本・沖原・上坂・関本と 次々出てくる内野手達の前に完全に影が薄くなっていった。そんな中、「何処でもいいから守る」と 外野の守備練習も開始。今季は打率.169ながら一度も二軍に落ちることなく、代走・守備固めの ユーティリティプレイヤーとして貢献した。しかし、ライトライナーしか打たないその打撃、 も少しなんとかならんもんか。(2003/9/16)
想い出の背番号00
亀山 努「忘れないそのガッツ」

92年、阪神タイガースを優勝争いに導いた原動力の一人。果敢な一塁へのヘッドスライディングで ぬるま湯に使っていたタイガースナインにカツを入れた。桑田から放ったサヨナラ安打は未だに 忘れられない。その後故障に泣き、いつの間にか遅刻常習犯 になるなど完全にやる気喪失。しかし引退後、リトルリーグの監督としてチームを世界一に導くなど、 再び野球への情熱を燃やす。(2003/9/16)

背番号0
中村 豊「ファイターズ四人衆」

2002年オフ、ファイターズよりトレード移籍。95年、ファイターズにドラフト1位で明治大学より入団。 核弾頭になるべく期待をかけられるも、なかなか芽が出ず。新天地で貴重な守備固めとして優勝に貢献した。 気が付けば272も打っていることは余り知られていない。(2003/9/16)
想い出の背番号0
中野 佐資「男の中の男なら〜」

88年、村山政権一年目に「若虎少年隊」として大野・和田と共に売り出された選手。85年ドラフト2位。 秀太の応援歌は彼の応援歌のお下がりである。実は三人の中で一番どうでもいい選手だったので あまり覚えられていない(笑。ラッキーゾーンが撤去されてからホームランが激減したかどうかは定かでは ないが撤去後2年で引退したのは事実である。(2003/9/16)

背番号1
谷中 真二「東尾野球を受け継ぐ男」

2001年シーズン中に平尾とのトレードでライオンズよりタイガースへ。 当時タイガースにはいなかった「シュートで相手の内角を突ける」投手として重宝。 「シュートを投げればスライダーも生きる。その逆も然り」と藪その他のタイガース投手陣に見せつけた。 が、残念ながら今季に限ってはイマイチでした。でも3勝してるし入れます。来季は頑張れ!! ていうか日本シリーズもな!!(2003/9/16)
想い出の背番号1
トーマス・オマリー「タイガースファンハ、イチバンヤー!!」

この背番号、中込と迷いましたが、やはりオマリーです。91年、メジャー900試合のマーベル・ウィンと 共に入団。当初の期待とは裏腹に、1億円のウィンはサッパリで3000万円のオマリーは活躍。そして92年、 快進撃するタイガースを三番打者として、そして三塁手として支え、その後も3割を悠々越える打率と 4割に迫ろうかという得点圏打率でチームに貢献したが、94年オフ、何故か解雇。中村勝広監督曰く 「助っ人はホームラン打ってなんぼ」らしい。解雇されたところをスワローズに拾われ、優勝に貢献した。 私的にオマリーで忘れられないのが、せっかく高い得点圏打率を誇っていながら、その選球眼があだとなり チャンスなのに四球で歩いてしまうことがあったこと。「お前が打たんかったら点入らんがな!!」と よく突っ込んだ。ヒーローインタビューでの「タイガースファンハ、イチバンヤー!!」には 何度も泣かされた。(2003/9/16)

背番号3
八木 裕「チャンスに弱い男が代打の神様に」

八木については今年の5/19のタイガース日記にて一度作文を書いた。 今、改めて何も言うことはない。17年。スタメン張ってた頃の勝負弱い打撃が忘れられない一方で、 近年の代打の神様ぶりも当然忘れられない。一粒で二度美味しい、そんな選手です。 しかし今季はスタメンで神通力を使い切り、最近代打でさっぱり打ててません。 「いらないと言われるまで野球をやる。自分から引退はしない」それもまたかっこいい。(2003/9/17)
想い出の背番号2
平尾 博司「暗黒時代の象徴の一人」

背番号3は85年のV戦士・長崎の後ずーっと八木なので、想い出の背番号2をここではお送りします。 ちなみに今の背番号2は若手の藤原選手です。頑張れ。
平尾博司。93年ドラフト2位。2001年シーズン中に谷中との交換でライオンズへ。現在の名前は「博嗣」。 背番号2は激戦区で、他にも大野、高橋慶彦、松永など名だたる選手が揃っているのだが、 やはりここは平尾でしょう。高校時代通算68本塁打という実績があだとなり、小兵なのにも関わらず 長打を捨てきれなかった、タイガース暗黒時代の「外野フライ連発小兵選手」の代表格。 現在ライオンズで活躍中。頑張れ。(2003/9/17)

背番号4
藪 恵壹「野球が6回までなら超一流投手だったであろう男」

93年ドラフト1位。94年ルーキーイヤーに9勝をあげ新人王。一年目からその気はあったのだが、 ルーキーということで許していた周りがいけなかったのか、気が付けば「必ずいつかは崩れる投手」に。 0がずらっと並ぶ電光掲示板の中に、何故か一カ所「6」が入ったりしている時は、藪が先発だったと思って 間違いない。でも良かったね優勝できて。しかし相変わらずトレード候補であることに間違いないような気が しなくもなくもない。頑張れ。(2003/9/17)
想い出の背番号4
マット・キーオ「暗黒時代の大エース」

87年タイガース入団。その年、11勝。41勝しか出来なかったタイガースの四分の一の勝利をあげる。 今季今現在の82勝で換算すると22勝していることになる。すげぇ!! 四年で45勝44敗。この四年間のタイガースの成績は198勝313敗であることから、勝ち越しているだけでも いかに凄いか分かろうと言うものである。時代が時代ならば球史に名を刻めた助っ人エース。(2003/9/17)

背番号5
沖原 佳典「この選手がなんとドラフト6位で!!」

2000年ドラフト6位。F1セブンの一人。2000年シドニー五輪で日本代表の核弾頭として活躍、また 堅実な守備も魅せた。しかし28歳という年齢がネックだったのか、その年でのドラフトではなかなか 指名されず。「獲らへんのかなぁ」と私が思っていると、さすがのむさん、ちゃんと指名してきました。 「この選手をこんな下の順位で獲れるなんてラッキーだ」と思ったもんです。今季は基本的に控えながらも、 スタメン選手が欠場する時は代わりにスタメン出場し、しっかりと働いた。打率362は立派の一言。 しかし今年のドラフトで早稲田の鳥谷君の獲得が濃厚となり、ひょっとするとトレードもあるかもしれない 存在に。頑張れ。(2003/9/17)
想い出の背番号5
新庄 剛志「浪速のプリンス」

89年ドラフト5位。現アメリカ3A選手。彼についても今更何を語ることがあろうか。 勝負強いのか勝負弱いのかよー分からん選手やったけど、守備は間違いなく一級やった。 「飛べ!!」と思ったら飛んでくれたし、最後の最後に四番として開花してくれたし、 ほんと期待を裏切らない選手でした。新庄が出て行った結果、赤星を獲得し中堅に据えることになった というのも、なかなか運命的と言えるかもしれません。「新庄抜きで外野を守りきれるのか」と不安に思った こともありましたが、今では赤星が立派に役目を果たしています。 亀山が引退し、新庄がタイガースを出て行った時、ひとつの区切りが来たように思いました。 そして今季の優勝。その華麗なプレー、劇的なホームラン、全て過去の記憶となってしまいました。 ああだから新庄剛志よ、改めて言う。「今帰ってきてもウチに場所はない。だからそこで頑張れ」(2003/9/17)

背番号6
金本 知憲「Vの使者」

筋肉魔人。練習大好き。筋トレ大好き。スイング速過ぎ。打球速過ぎ。鉄人。守備はイマイチ。 以上がカープ時代の印象。金本がウチにもたらしたもの。赤星・藤本のパワーアップ。 赤星の盗塁球団記録。打線の繋がり。優勝。とにかく、今季の金本は、フォア・ザ・チームに徹した。 打率.289、19本塁打、77打点は、決して本人も満足出来る成績ではなかっただろう。 自分を殺し、絶好球が来ても赤星の盗塁のために見送り、流したい球が来ても走者の進塁のために 無理矢理引っ張った。圧巻は、4月1日の広島市民球場だった。赤星のタイムリーで逆転し、さらに続く チャンス。佐々岡・西山バッテリーとのお互いを知り尽くした真剣勝負。 延々続くかと思われた11球に渡る熱闘は、四球に終わった。そして、それまで今季無安打だった 若き四番・濱中に、今季初安打・初タイムリーをもたらした。繋ぎの三番打者として、これ以上ない仕事 だったと言って良かった。しかし、それでも、多くの人が言うように、濱中の故障後、タイガースの主砲は 金本だったのであろう。ここ、という場面でのタイムリー・ホームランが、いかに多かったことか。 特にジャイアンツ戦での活躍は、全国のトラキチを虜にしたと言っていい。 金本よ、本当に、来てくれてありがとう。(2003/10/13)
想い出の背番号6
和田 豊「虎の意地」

最早この人については語って語って語り尽くした感がありますので、短めに。 あなたを胴上げ出来なかったことだけが、心残りです。 どれだけ負けても、あなたがいたから応援し続けることができました。 いつも、ファンの方を向いて、野球をしていた、あなたがいたから。 これからも、赤星や藤本といった、小兵の3割打者を、たくさん育てて下さい。(2003/10/13)

背番号7
今岡 誠「無気力人間がガッツマンに」

今岡と言えば、すっかりノムさんを悪人に仕立て上げてしまった選手である。 まぁ、この辺については他でも散々語っているので、ここではもう何も言うまい。 今岡誠という男が我々に教えてくれたこと、それは、「一見無気力そうに見える人間でも、接し方次第で ガッツマンに変わることがある」ということだ。まぁ、今岡の場合、吉田政権時にはそれなりに頑張ってた という事実があったから、無気力(に見える)プレーをしても、庇ってくれる人がいたんだけどね。 星野仙一に叩き込まれたガッツ、忘れないで下さい。無気力な貴方は、もう観たくない。 (2003/11/8)
想い出の背番号7
真弓 明信「千両役者」

物心ついてから、背番号7は真弓と今岡しかいません。真弓はV戦士なので、ここで語るべきかどうか 悩みましたが、晩年の「代打の切り札」時代が大好きだったので、語りたいと思います。 若い頃は核弾頭として名を馳せ、ベテランになってからは代打の切り札に。 代打打点記録を樹立するなど、ここ一番での働きはまさに千両役者だった。 94年は代打・真弓だけで十二分に楽しめた年だった。95年、タイガースより戦力外通告を受けたが、 引退はせず、自由契約の身で他球団からのオファーを待った。いや、オファーなどないことは分かっていた。 しかし、自ら「引退」を選択することはなかった真弓の生き様に、私は心から涙した。 早くウチの首脳陣に迎えたいんだけど、バファローズはなかなか手放してくれないだろうなぁ(笑 (2003/11/8)

背番号8
片岡 篤史「屈辱をバネに」

涙しながら臨んだFA移籍先発表の記者会見。会見が始まる1分前まで悩んでいた、というのは、 大袈裟でも嘘でもないのかもしれない。移籍一年目。あまりに酷い不調に、ファンからは厳しいヤジが 飛び続けた。結局、最後の最後まで低調だったため、擁護派のファンもだんだん 擁護し辛くなっていった。2002年9月22日甲子園。最早Aクラスも遠のいた阪神タイガースは、 8回表で6点差と、敗色濃厚になっていた。相手投手は、この年、それまで無敗だったカープのリリーフエース 小山田。しかし、8回裏の片岡のタイムリーを足がかりに、タイガースの反撃が始まる。 最終回、3点差とし、満塁のチャンスで再び片岡。小山田の速球を、見事ライトスタンドに叩き込んだ。 最後の最後に、片岡がチームに溶け込んだ、そう思った。 今春キャンプ。金本の移籍、伊良部の加入、赤星と濱中のポジション争いなどもあり、驚くほどに、 片岡に話題が行かなかった。静かな環境で、黙々と打撃フォーム改造に取り組む片岡。 しかし、シーズン開幕直前に故障、開幕一軍を逃してしまう。4月4日大阪ドーム、今季7試合目にして ようやく一軍に合流した片岡は、試合終盤に代打で登場する。驚くことに、その名がコールされると、 タイガースファンから大きな歓声があがった。みんな、片岡を忘れていなかった。復帰二試合目で 見事ホームランを放った片岡は、その後スタメンに返り咲き、ジャイアンツ戦でサヨナラ安打を放ったり 優勝決定の日に同点ホームランを放つなど、節目節目で勝負強さを発揮した。 片岡の応援歌の歌詞は、本当に、片岡に合っていると思う。 「関西魂 見せてやれ 熱く燃えて吼えろ 日々新た チャレンジ 片岡篤史」 来季さらに激化する内野手争いの中、規定打席到達に向けて、片岡の挑戦が再び始まる。 (2003/11/15)
想い出の背番号8
田尾 安志「その時、母は喜んだ」

87年、タイガースへ移籍。V戦士である吉竹とのトレードだった。 かつてドラゴンズのアイドルであった田尾の移籍に、私の母は喜んだ。 いい打者だった。伊達に首位打者を獲った男ではないと思った。88年には、サヨナラ本塁打を3本放つという 偉業も成し遂げた。だが、タイガースに来てからは、故障がちだった。 91年に引退。よもや、その翌年に、タイガースが優勝争いを演じるとは思いもしなかったであろう。 この年、タイガースのベテラン代打陣が総崩れだったこともあり(部分部分では活躍したんだけど(笑)、 「田尾がいればなぁ」と思ったかどうかは各タイガースファンの胸に、深くしまわれている。 (2003/11/15)

背番号9
藤本 敦士「ドラフト7位でも」

私は、ポコポコ天ぷらを上げまくる小兵選手が嫌いだ。昨年のキャンプ・オープン戦で、藤本が ひたすら三遊間にゴロを流し打っているのを観て、おおいに期待した。しかし期待は裏切られた。 シーズンに入ると、平凡な外野フライ量産マシーンと化した。あげくフレッシュオールスターでは ホームランを打ちやがり、何を考えてんのかと思った。結局2002年の藤本は打率209に終わった。 オフに金本が加入したのを受けて、赤星と共に藤本も筋力アップに励んだ。 「まさかホームランを打てるようにするとか言い出すんじゃないだろうな」と不安にかられた。 赤星と並ぶ野村遺産だと思っていたが、故障しながらも盗塁王を獲得した赤星とは、大きな差をつけられた と言って良かった。
藤本の野球人生は、大学時代に一度暗転した。 育英高校ではキャプテンを務め、甲子園にも出場した。当たり前のように、亜細亜大学に入学。 着実に野球選手として経験値を積んでいった。しかし、高校時代から悪くしていた腰が、遂に限界を超えた。 志半ばで、大学を中退。息子を阪神タイガースに入団させるのが夢だったという藤本の親父さんは、 涙ながらに悔しがったという。腰がそれなりに生活できるくらいにまで回復した頃、藤本はこれからのことを 考えていた。野球のことしか考えてこなかった自分が、これから何をすればいいのか。そんな藤本に、 親父さんは「すまん、もう一回だけ、野球やってくれんか」と頼んだ。 甲賀総合科学専門学校の野球部は、藤本のような志半ばで野球を辞めた選手が、再び野球をする ところだった。練習時のユニフォームは、皆がかつて所属していた野球部のものなのだという。 早稲田や慶応や、様々なユニフォームの選手が練習する中、藤本も亜細亜大学のユニフォームを着て 練習した。最初は腰に不安を抱えながらだったが、ちょっとずつ激しいプレーも出来るようになっていった。 卒業後、社会人野球のデュプロに入団。そして、野村タイガースに、ドラフト7位で入団した。 昨今のプロ野球は、レベルの向上や逆指名制度やFA制度もあり、ドラフト下位選手が活躍することは、 かなり難しい状況になっている。同期入団の赤星(4位)沖原(6位)は、 オリンピックでの実績もあり期待していたが、藤本への期待は皆無と言って良かった。 しかし、のむさんに「F1セブン」の一角として見初められた藤本は、一年目の終盤、見事に一軍に定着した。
辛酸をなめた二年目を乗り越え、三年目の今季、筋力アップした藤本は、キャンプ・オープン戦では 昨年同様、ひたすら三遊間に流していた。岡田コーチの推薦もあり、 藤本は見事二年連続開幕スタメンの座を掴んだ。 しかし昨年のことから、私はイマイチ藤本を信じることが出来なかった。 だが今年の藤本は違った。外野フライを打った次の打席では、転がそうという意識が見えた。 常にショートの上を狙っているようにも見えた。シーズン終了時、打率は3割に乗った。 守備は相変わらず大味だったが、日本シリーズでは送球も安定していた。 間違いなく日に日にレベルアップしていた。ドラフト7位の選手が、ショートという貴重なポジションを、 しっかりと掴んだ。
来季、鳥谷の加入でさらに激化する内野争い。新参者になど負けないよう、私は藤本を応援したい。 (2003/11/24)
想い出の背番号9
北川 博敏「最初からやっとけ」

阪神タイガースの背番号9は、85年V戦士の後は、岡本圭司→北川博敏と、ドラフト2位の野手が付けた。 二人ともおおいに期待された選手だったが、ここでは、 現在近鉄バファローズで活躍中の北川をとりあげたい。
「打てる捕手」として94年ドラフト2位で入団した北川だったが、捕手としては致命的に使えなかった。 リードは単調、盗塁も刺せない。期待された打撃も、ただレフトフライとショートゴロを量産するのみ。 「カツノリ以下」と言って差し支えなかった。2000年オフにはバファローズへトレード。 しかし、これが北川の大きな転機となった。2001年、バファローズ優勝を決める、代打逆転サヨナラ 満塁ホームラン。一躍全国区にのし上がった。期待された2002年は故障もあり不振に終わったが、 今季は故障で中村を欠くことが多かったいてまえ打線の中核を担い、99試合で13本塁打。打率も309と、 来季さらに飛躍が見込める成績を残した。タイガース時代よりもはるかにデカくなった尻が、 バファローズ移籍後に厳しいトレーニングを積んだであろうことを伺わせる。 が、しかし、北川よ。なんでそれがウチにおる時にできんかったんだ…(笑。 (2003/11/24)

背番号12
浅井 良「これからだ」

01年自由枠。次期正捕手として期待がかかる。二年目の今季、打力・送球ともに成長を ハッキリと観ることが出来た。後はリードか。ぬぅ、二年目の控え選手についてする コメントなんかそんなないぞ(笑。もっと多くのことを語られる選手に早くなって もらいたい。(2003/12/8)
想い出の背番号12
星野 おさむ(修)「打球がライトスタンドを一跨ぎ」

シークリストと悩みましたが、星野修で。68の時はええ選手やったのに…と 言うのは禁句。
88年ドラフト外。 暗黒時代の象徴の一人。全てにおいて「そこそこできない」選手。 一二塁間に向けて簡単に処理されるゴロを打つ天才。「内角低め打てない軟骨」という FYTN名用語を作り出すきっかけとなった選手。バファローズ移籍後二年目で バファローズナイズドされ、今季はそれなりに活躍した。 今思えば、ドラフト外でここまでの選手になれたのだからたいしたものか。 金本の応援歌が彼のお下がりという事実は、なんとも失礼な話だと未だに思う。(2003/12/8)

背番号14
ジョージ・アリアス「メシア・フロム・USA」

00年Bw入団。01年オフにタイガースが強奪。勝負弱いバッティングと豪快なダメ押し ホームランの狭間で自身もチームも揺れ続ける、難しいプレイヤー。 今季は得点圏打率こそ3割を越えたものの、試合自体の勝負所ではどうだったか というと、やはり疑問が残る。とはいえ、打線の構成上絶対外せない選手であり、 ダメ押しホームランも強いチームでは大きな価値があるということもまた事実。 アリアスが右中間にヒットを放つ時は、タイガース打線が鬼のように繋がる時と 思っていただいて結構です。何にせよ、近年ロクな助っ人野手を連れて来れなかった タイガースにとってはいくら払ってでも置いておきたいナイスガイ。 応援歌の歌詞のセンスはタイガース助っ人応援歌史上屈指で恥ずかしい(笑。(2003/12/8)
想い出の背番号14
弓長 起浩「スクリューよりもしょんべんカーブ」

91年ドラフト3位。 元祖ミスター登板過多。四球を与えて降板するか、ピシャリと抑えるかの二択 しかない、典型的スクリューボールワンポイント投手。ある意味 スクリューボールよりも弓長の代名詞だったかもしれない「しょんべんカーブ」を 前田や金本にライトスタンド中段まで運ばれる様はタイガース暗黒時代を語る上で欠かせない。 敗戦処理で出てきたハズの竹内の尻拭いを雨の中させられた時はファンの涙を誘った。 遠山の復活で表舞台を追われる。一度先発させたかった、90年代タイガース黄金中継ぎ陣の先駆者。 (2003/12/8)

背番号16
安藤 優也「やはり若手は投げ込んでナンボ」

01年自由枠。一年目はシーズン序盤にローテの一角を担うも、新人らしさのかけらもない変化球中心の投球で 「竹内二世」という印象が拭えなかった。故障のためシーズン中盤以降は一軍から姿を消した。 「140キロ後半出るというのは嘘だったのか」とタイガースファンが今まで幾度となく経験し 口にしてきた愚痴を安藤についても吐きまくることになり、シーズンオフに中西清起が 「安藤はセットアッパーがいいですよ」と言っているのを観て「何考えてんねん」と思ったが、 実は星野仙一も「若手にはセットアッパーをやらせてピッチングを覚えさせる」という理論があり、 セットアッパー安藤の誕生は避けられない状況となっていた。 今季、安藤は開幕一軍は逃したものの、4月中には昇格、すぐさま150キロ近い球を投げて見せ、 「こいつはひょっとすると…」と思う間もなくあっという間にセットアッパーに定着してしまった。 試合終盤、マウンドに仁王立ちするしかめ面の安藤を観る度に、私は思ったのである。 「中西ってリリーバーを見る目は凄いんじゃないか…」と。 日本シリーズではまだ若いところを見せてしまったが、今やドラゴンズの落合英二にも引けを取らないほどの セットアッパーだと思う。来季以降、また先発するにしても、今季の経験は必ず活かされることだろう。 (2003/12/12)
想い出の背番号16
山崎 一玄「キング・オブ・中途半端」

90年ドラフト3位。名前は「かずはる」と読む。 暗黒時代を代表する中途半端投手。 竹内と並ぶ20世紀最後にして最高の敗戦処理投手。 プロ入り当初はMAX146キロの速球が売りなどと 言われていたが、いざ一軍に上げてみると見事に 138キロしか出なかった。しかも変化球はスライダーも フォークもそこそこにしか曲がらないという 阪神タイガースの暗黒時代に大量生産された 中途半端投手の象徴とも言える若手投手だったが、 なぜかいきなり東京ドームのジャイアンツ戦で 完封勝利を挙げてしまい、その年はなんと7勝も してしまったのだった。しかしその後は鳴かず飛ばずで、 山崎自身も本格派を目指すのか軟投派を目指すのか 悩み続け、結果速球の速さは144キロまで上がったが、 変化球は相変わらず中途半端な曲がりで、 結果的に打者には打ちやすい投手となってしまい、 彼のプロ野球選手人生は終わった。 現在タイガースで打撃投手として働いている。 そうだ、彼ほどこの仕事に向いている人材はいないと 言っていいだろう。今季のタイガース打線の 脅威の粘りの裏には、彼の打撃投手としての 働きは不可欠だったと言っていいのかもしれない。 (2003/12/12)

背番号17
トレイ・ムーア「近年最高の優良助っ人」

解雇決定してからこれを書くことになったのは ちょっと残念。ヒゲがトレードマークで非常に 個性的な馴染み易い助っ人でした。 投げるのも打つのも走るのもどれも真剣に やってくれてました。成績だけじゃなく、 姿勢そのものが優良助っ人でした。 これほどまでに愛した助っ人はオマリー以来じゃ ないかと思います。優勝したから、 「他球団でも頑張れ」と素直に応援できるかな。 でもできればパ・リーグに行ってほしい。 でも彼の打撃を観るにはセじゃないとダメなんだよな…。 (2003/12/12)
想い出の背番号17
猪俣 隆「顔で怒って心で泣いて」

25番だった時もありましたが、こっちで。 90年ドラフト1位。タイガースが誇るナックルボーラー。 そしてマイク仲田と並ぶ、球界随一のノーコンピッチャー。 2安打完封ただし四球7、などというステキな投球内容は 日常茶飯事。高校時代に打たれてニヤニヤしていたら 監督に「笑うな!!」と叱られ、それ以降常に マウンドではしかめ面をするようにしたらしいが、 投球内容が伴わないため「顔で怒って心で泣いて」 とよく言われた。今思い起こすと結構好きだった 投手。基本能力が高かったことを認めているのか? (2003/12/12)

背番号21
吉野 誠「遠山桜の後継」

99年ドラフト2位。 138キロの速球にそこそこのスライダーで、 「せいぜい湯舟止まり」などと思っていたら、 サイドスローに転向した途端大化け。 遠山クラスの凄い中継ぎ投手になってしまった。 しかし「吉野がいれば左封じは大丈夫」と皆が 思い始めた頃、落とし穴が待っていた。 今季の7月26日ナゴヤドーム。よもやの5連続四球。 吉野は自分自身の情けなさに涙を流した。 その日のボールは、戒めとしてその後ずっと 持ち歩いているという。 日本シリーズでは強打ホークス打線を完璧に 封じた。目指すはドラゴンズ岩瀬のような 左右問わない中継ぎ投手になることか。 吉野の中継ぎ人生は、まだ始まったばかりだ。 (2003/12/12)
想い出の背番号21
関川 浩一「コンバートの難しさを教えてくれた」

90年2位。現ドラゴンズ。 「打って走れる捕手」としてデビューするも、捕手としての能力があまりにも酷かった。 盗塁をさっぱり刺せないなどというのはまだいい方で、ジャイアンツのスライダーさっぱり打てない 助っ人・バーフィールドに猪俣にストレートを連続して要求し二打席連続本塁打されたのは伝説として 未だにタイガースファンの心に残っている。 コンバートしようにも、当時のタイガースの外野は新庄・亀山・石嶺らで埋まっており、 いちおう正捕手だった山田が絶望的に打てなかったということもあり、チームもファンも なかなか捕手・関川を諦めることが出来なかった。 藤田平監督により、ようやくライト・関川が実現するが、当の藤田平があっという間に引責休養してしまった ため関川のコンバートは中途半端に終わり、次の吉田監督は強力打線を作りたいがために 相変わらず圧倒的に打てない山田ではなく捕手・関川を使いたがり、しかし関川の捕手能力も相変わらず 絶望的で、関川自身「もうどうしたらええんじゃ俺はー!!」とキレてしまったのだった。 97年オフにドラゴンズへトレード移籍。当時のドラゴンズ星野監督はあっさりと関川外野コンバートを 実現。センター関川は、99年のドラゴンズ11年ぶりの優勝に大きく貢献することになる。 その後関川は不振が続いていたが、今季なんとか復活。まだその闘志は衰えていないことを証明した。 (2003/12/12)

背番号24
桧山 進次郎「悠久の若虎」

91年4位。選手会長。ベテランの域に入っても未だに「ええ兄ちゃん」の雰囲気が 抜けないが、それゆえにチームを巧くまとめられたような気がする。 成績も若い頃は長距離打者と中距離打者の狭間で悩み続け、 低打率の20本塁打打者というどうにも使えない成績に終わることが多かったが、 30代になり野村政権下でようやく3割達成したという遅咲きプロ野球人生だけに、 まさに応援団の横断幕通り「悠久の若虎」と言えよう。 よく新庄と比較されたが、新庄がいなくなってから良くなったのがなんとも面白かった。 今季濱中の故障を受け、タイガースファン長年の夢であった 「四番・桧山で優勝」が叶い、多くのタイガースファンが涙した。(2003/12/?)
想い出の背番号13
葛西 稔「92年開幕投手」

24は住友とかしかいないので。
90年1位。御子柴に続くサブマリンとしておおいに期待されたが、先発で過ごした 5年間はほぼ鳴かず飛ばずに終わる。96年、何の閃きか藤田平監督が 故障明けだった葛西を中継ぎとして起用してみたところ、 これが大ハマリ。以後の吉田政権・野村政権への大きな遺産となる。 遠山と一塁手・投手を交互に代わる野村監督の必殺技「遠山スペシャル」の 片棒を担いでいたのは葛西であって伊藤敦ではない点に注意。 現在二軍投手コーチとして後輩サブマリンの伊代野を鍛えている。(2003/12/?)

背番号25
濱中 治「残された夢」

96年3位。二年連続で故障。星野タイガースがやり残したことは、 四番・濱中を全う出来なかったことだろう。彼が四番として 一年働いた時、本当にタイガースは生まれ変わる。だから今は 多くを語らないでおこうと思う。(2003/12/?)
想い出の背番号25
デーブ・ハンセン「六甲揺るがす秘密の兵器」

98年入団。ドジャースの左の代打の切り札。向こうの控え選手はこっちでも 控え選手みたいな成績になることを証明した選手。助っ人としては 大いに物足りない成績で、例年ならば叩かれたのであろうが、 98年はパウエル・大豊が入団し、彼らのダメっぷりや 新庄の絶不調の方がクローズアップされたため、 全く人々の記憶に残っていない悲運の助っ人。 ダメなら強烈にダメな方がいいというプロ野球の難しさを体現した。 夏場に放ったサヨナラスリーランは一体何人の人が覚えているというのか。 帰国しメジャー復帰後、年間代打本塁打のメジャー記録を打ち立てる。(2003/12/?)

背番号27
野口 寿浩「今季最大の補強」

89年スワローズドラフト外。 スワローズ時代は古田の控え捕手として燻り続け、ファイターズ移籍後に打棒開花。 ビッグバン打線の一角を担うに足る素晴らしい成績を収めた。 出場のために外野も守ったりと、矢野と並ぶ苦労人正捕手であった。 近年やや力の衰えを見せていたが、それでも山田よりは明らかにいい捕手 であったため、昨年矢野の故障に泣かされたタイガース星野監督の目に留まったのだった。 今季の矢野があの成績を収めたのは野口の加入が大きいというのは今更の話であろう。 馬面がとってもイカスナイスガイ。(2003/12/?)
想い出の背番号27
山田 勝彦「また外スラかよ」

人格者。プロ野球選手でなくリトルリーグの監督でもすればきっといい監督になれると思う。 プロ野球選手になったのが間違い。「外角スライダー勝彦」などというサイトが 立つくらい外スラ一本リードをする驚異の捕手。山倉もビックリ。 今更多くを語る気にもなれないくらい語り尽くした選手。 デビュー当時は「強気のリード」が売りだったのだが、中途半端なタイガース投手陣をリードするうちに あのようなリードになってしまったのかもしれない。不憫。(2003/12/?)

背番号28
福原 忍「滑り込みセーフ」

98年ドラフト3位。10年以上タイガースに現れなかった「日本人にして150キロの豪速球を投げる男」。 それゆえに入団当初はそれだけで非常に貴重な存在であり、我々ファンも大いなる夢を抱いた。 しかし時折見せる弱気の虫からへなちょこスライダーを投げては打たれ、 困って投げたヤケクソストレートもまた打たれるという悪循環によく陥る投手でもあった。 のむさんが監督になってより後、本格派投手が急激に増えたため、次第に存在価値が下がっていった 福原は、星野政権一年目に故障し、2003年は完全に戦力構想外となっていた。 このまま優勝の輪に入れず「暗黒時代の象徴」とされてしまうのかと思われたが、 8月下旬に一軍復帰し即先発。本格派でも軟投派でもない絶妙のコンビネーションで 見事な投球を展開。滑り込みで優勝の輪に加わった。藤田太陽・藤川球児に期待する前に 俺に期待しろ、くらいの気概でこれからやってもらいたい。(2004/1/11)
想い出の背番号28
グレン・デービス「真っ赤に燃えて一発長打」

95・96年在籍。暗黒時代のタイガース野手助っ人では珍しく、一年目残留した選手。 しかし背筋の故障がどうにも治らず、二年目はシーズン開幕後さっさと帰国退団してしまった。 一年目開幕当初打ちまくっていたのにチームの負けがどんどん増えていくにつれあからさまに やる気がなくなっていったのは観ていて申し訳なかった。「強いチームに行けば3割30本打つ」と 一部のタイガースファンは思っていたが、残留決定の際に「なんで?」と思った人も多かったに違いない。 相方のクールボーと合体させて「グレンボー」とか呼んでいたのはいしいひさいち先生。(2004/1/11)

背番号29
井川 慶「大エース」

97年ドラフト2位。日本ハムファイターズとの競合が予想されていたが、井川が腰に故障を抱えていたため、 ファイターズが断念。99年、米子でプロ初勝利。しかしその年は結局その1勝に終わる。 翌年も1勝止まり。野村監督に期待されながら、一皮剥けられない。2001年、野村政権最後の年。 ボロ負けの開幕戦で敗戦処理として登板したが、過去二年とは明らかに違う速球の走りに、 何か期待させるものがあった。この年、井川はいつの間にかエースの座にのし上がった。 9勝ながら、防御率2.67で、最後までタイトルを争った。 2002年、星野政権一年目。かつて、ドラゴンズ監督時代に「プロ野球選手として情けない」とまで酷評された 監督の下で、井川は大エースへの大きな一歩を踏み出した。12年続いた開幕戦黒星を止め、 前半戦だけで二桁勝利に到達。球界を代表する左腕になりつつあった。 しかし、後半戦失速。結局14勝に終わり、目標としていた防御率のタイトルも後一歩で及ばなかった。 2003年、その教訓を活かし、夏場にも勝てるコンディション作りをした井川。相手を牛耳る投球は 一度も無かったと言っていいが、20勝は打線やチームと噛み合った証とも言える。 防御率はエースの座についてから一番悪かったが、それでもタイトルを獲った。 軽く「15勝は計算出来る」と言えてしまう投手の誕生は、タイガースファンの悲願だった。 井川慶24歳、これからも、頼りにしてます。(2004/2/14)
想い出の背番号29
石嶺 和彦「それでも好きだったFA砲」

79年ブレーブスドラフト2位。ブルーサンダー打線の一角を担った男。 正直、結果から言うと、期待外れに終わったFA砲。 が、それでもその打撃は好きでした。見事な放物線を描くホームランと、流し打ちのライナーは、 まさに芸術品でした。内角低めのすくい方が物凄く上手かったのが印象的。 タイガースに来てDHから左翼手に転向した時に「ベンチに帰ってくるのがしんどい」と言っていたが、 そのせいで打てなかったとは思いたくない。っていうかそんなロートル獲って来んなよ!!(笑 (2004/2/14)

背番号30
久保田 智之「右のエースに」

02年ドラフト5位。入団発表で「160キロ投げる」と宣言したトルネード野郎。 5位入団ながら一年目から一軍で活躍。オリジナルのトルネードから150キロを越える速球を投げ込む 豪快な投球と物怖じしない性格は好印象。しかし、案の定故障してしまい、日本シリーズには出られず。 故障がなければ新人王でも夢ではなかったのではないだろうか。故障をしっかり治して、 今季は勝ち星倍増の10勝を狙ってもらいたい。(2004/2/15)
想い出の背番号30
アロンゾ・パウエル「三年連続首位打者」

92年ドラゴンズ入団。ドラゴンズ時代は5年連続3割、3年連続首位打者を獲るなど安定した打撃… っていうか球足の速いゴロのライト前安打と謀ったようなポテンヒットで安打は量産するけど 打点はさっぱり稼げないという多分本当のところは外れ助っ人だった気が。 明らかに力の衰えで打てず守れずになりドラゴンズを解雇されたところを何を血迷ったか よっさんが獲得。見事な賞味期限切れっぷりを発揮するわ坪井の出番を奪い続けるわで 98年どん底タイガースの象徴とも言える選手だった。 でも本塁打9本は実は立派だったのかもしれん。甲子園で門倉からホームランを打った時に 実況の西澤さんが「これは門倉にとっては気の毒な結果になりました」と実況したのは 「パウエルごときに…」という意味だったかどうかは定かではない。(2004/2/15)

背番号31
広沢 克実「今後もプロ野球に貢献を!!」

84年スワローズ1位。当時は「克己」。打点王二回の勝負強い打撃は印象的。 流し打ち本塁打の美しさは落合・清原と並ぶ。古田・池山と並ぶ野村スワローズの超メイン選手。 野村克也・長嶋茂雄・星野仙一の三人に仕えた上にしゃべりも上手、理論も完璧と、 今後の球界に絶対必要な男。ジャイアンツ移籍後一度引退間際まで行ったが、 タイガース二年目で奇跡の復活。星野政権下では八木と並ぶ代打の切り札として活躍した。 が、2003年シーズン終盤にスタメンで活躍してしまったのが運の尽きか、 日本シリーズでもスタメンに抜擢され散々な内容に終わる。多分シリーズ敗戦の元凶の一人。 しかし、最終打席の本塁打は泣かせるものがあった。(2004/2/15)
想い出の背番号31
萩原 誠「幻の掛布二世」

91年ドラフト1位。大阪桐蔭で高校通算58本塁打。掛布の背番号を継ぐ男として期待される、が、 全く伸びず。95年に4本塁打したのが唯一の輝きか。97年オフにバファローズ移籍。私とえんめ氏が 見に行った鳴尾浜の二軍戦で先発出場していた誠(結婚して服部姓になったため登録名変更)に、 えんめ氏が「お前と同期の斎藤や落合は立派にやっとんぞ!!」とヤジを飛ばし、 それに答えるかのようにホームランを放ったのが一番の想い出(笑。 バファローズを解雇された後、社会人野球のIBM野州に入団した。(2004/2/15)

背番号32
久慈 照嘉「名手」

91年ドラフト2位。笑うしかない程の非力っぷりから生み出される差し込まれファールは 「久慈ファール」と呼ばれ、一時代を築いた選手(笑。 ルーキーイヤーはタイガースが優勝争いを演じ、「平成の牛若丸」として遊撃手のポジションを あっさりと奪取した久慈だったが、課題の打撃が一向に伸びず、97年オフにドラゴンズへトレード。 99年のドラゴンズ優勝には守備固め要員として貢献。しかし、井端ら若手の成長に押し出される形で 2002年オフに解雇されたところを、ドラゴンズ時代に久慈をトレードで獲得した星野監督が 今度はタイガース監督として拾うという面白い展開に。守備に不安ありまくりの藤本の守備固めとして 優勝におおいに貢献した。5年ぶりに観る久慈の守備は、やはり巧く、感動した。 肩が弱いなら送球を正確にかつ速くすればいいという、当然の原理を見事に体現する偉大な選手。 (2004/2/15)
想い出の背番号32
坪井 智哉「バッ太郎」

97年ドラフト4位。ルーキーながらなかなかいい打撃センスを見せ、本来なら即スタメンであったハズが、 よっさんの意固地なパウエル起用によりデビューが遅れる。パウエル帰国後は一番に定着、 ルーキー史上最高打率.327をマークするなど活躍。二年目以降もおおいに期待されるが、 故障に悩まされることに。2002年オフ、金本獲得で外野手が余ったため、ファイターズにトレード。 2003年は自己最高となる打率.330をマークし、 小笠原と並ぶ「バッ太郎道求道者」として多分人気になっているハズ。 今季は是非首位打者を!! (2004/2/15)

背番号39
矢野 輝弘「要」

90年ドラゴンズドラフト2位。中村武志の控え捕手としてベンチを暖める日々。 ついたあだ名は「かまぼこ」。かまぼこが板に貼り付いているように、ベンチに貼り付いているという うれしくないあだ名だった。97年オフ、捕手不足に悩むタイガースがトレードで獲得。 「矢野でも高嶋でも三輪でも野口でも村田善でもいいから他球団の控え捕手が欲しいその方が 絶対山田よりいいから」と訴え続けていた我々ファンの願いが遂に通じた瞬間だった。 一年目こそ.211という低打率に終わるが、膝を手術した二年目からはコンスタントに打っている。 速球への強さと流し打ちの巧さはチームでも随一。故障に悩まされ続けているが、 2003年は自己最多の126試合に出場、MVPに推す声も多かった程、今や球界を代表する捕手。 しかし既に36歳であることに誰も気付いていない(笑。(2004/2/15)
想い出の背番号15
湯舟 敏郎「ノーヒッターなのにドジロー」

39番て吉田康夫→グリーンウェル→矢野っていう凄いリレーなんやね…。
90年ドラフト1位。マイク・猪俣と共に左腕トリオとしてタイガースの一時代を築いた ニヤケ面の兄ちゃん。92年、優勝争いを繰り広げる最中でノーヒットノーランを達成したのは 今や伝説だが、二桁勝利は三度しか達成していない(いや、三度「も」なのか!?(笑)。 98年、タイムリーヒットを打たれ後ろ向きにホームベースのカバーに入ろうとテクテクしていたら 突然倒れて足の甲を骨折するという偉業を達成、以降「ドジロー」呼ばわりされることに。 2003年の優勝で「焼き肉屋を営んでいる元タイガース投手」とかいう肩書きで関東メインの テレビに出まくっていたが、彼はMBSでフツーに解説者やってます。 「引退したらプロ野球に関係ある仕事ができないダメ選手」 みたいな紹介せんといてくれよ!!(2004/2/15)

背番号41
伊良部 秀輝「繊細?やる気次第?」

87年オリオンズ1位。不祥事の後に書かなければいけないのが辛いのぉ。 158キロの豪速球でパ・リーグを席巻し、メジャーでも活躍…とかいう経歴は今更か。 問題児だったが仙一の見事な手綱さばきで完璧に制御。 夏場以降さっぱりダメになったが、それでも13勝はさすがだった。 前半戦の時の繊細な投球が夏場以降完全に無くなっていたのは、 単に調子がいい時は勝手に繊細な投球ができているだけなのかと疑いたくなる。 残念。(2004/2/15)
想い出の背番号18
野田 浩司「シュート回転」

41番は…川尻くらいしか覚えてないよな。部坂って社会人野球やってんのか?
87年1位。村山さんが期待した若手投手の一人。92年、優勝争いするチームに乗り遅れてしまうが、 チームが連敗でズルズル行きかけた時に、野田の完封劇でチームは優勝戦線に留まり、 「さすが野田は18番を背負う男だ」と誰もが思った…が、残念ながら監督の中村勝広だけは そう思っていなかったのか、その年のオフにブルーウェーブ松永とトレード。 ブルーウェーブ移籍後も野田は大活躍。最多勝や一試合奪三振19の日本記録を打ち立てるなどし、 95年・96年の優勝にもローテーション投手として貢献した。真っ直ぐがシュート回転することを しっかりとモノにし、武器に転じた偉い人。今季からブルーウェーブの投手コーチに。(2004/2/15)

背番号42
下柳 剛「老練」

90年ホークス4位。中継ぎでの連投OK、先発もこなす丈夫な身体で「鉄腕」の異名を持つ。 見た目の豪快な風貌がかの水島新司先生にたいそう気に入られ、ホークス時代のみならず、 ファイターズ移籍以降も度々水島漫画に登場しては、本人は絶対投げたことないであろう 150キロの球を投げていることで有名(笑。制球は決して良くないが、老練な投球は観ていて面白く、 先発専念は正解だったと思う。が、伊良部と並ぶ「俺様選手」だけに、岡田では制御できないのでは ないかと不安も…。(2004/2/15)
想い出の背番号42
ジェームス・パチョレック「超優良助っ人」

88年ホエールズ入団。四年連続3割、首位打者一回という成績を残すも、本塁打が少ないという理由で ホエールズを解雇されたところをタイガースが獲得、打率3割はもちろん、本塁打は前年の倍となる22本放ち、 92年のタイガース躍進に貢献した。紳士的な物腰が好印象だった超優良助っ人。「パッキー」の相性で 親しまれるが、腰の故障により93年途中、自ら退団を申し入れる。最後の試合、試合終了後、一塁 スタンドから「なんでパッキーの引退セレモニーないんじゃー!?」と声が上がったという話は 今でも胸を打つ、いい話。(2004/2/15)

背番号44
関本 健太郎「濱中に追い付け!!」

96年2位。正直、入れるかどうか悩みましたが、まぁ日本シリーズでホームランも打ったしってことで。 濱中同様、まだ多くを語るべきではないと思います。濱中に負けるな!! タイガースファンが夢に抱くは、濱中・関本のクリーンナップである、と記しておくことにする。 (2004/2/15)
想い出の背番号44
セシル・フィルダー「世界のフィルダーを育てたんはこのワシや物語」

89年入団。オープン戦では「季節外れの扇風機」と言われ、ボールのかすりもせず三振しまくり、 おおいに皆を落胆させたが、石井コーチのマンツーマン指導により開眼。シーズンに入ってからは ホームランを量産し、タイトルに手が届きかけたが、三振した時の怒り表現としてバットを折った際に 指を骨折し、タイトルも逃したというお笑い選手。シーズン終了後、たった一年でメジャー復帰。 二年連続本塁打王を獲得するなど、大活躍した。今なら2億払ってでも繋ぎ止めておくんだろうなぁ。 (2004/2/15)

背番号48
石毛 博史「夢にも思わない」

入れるかどうか悩んだが、終盤それなりに出ていたので。 88年ジャイアンツドラフト外。「ノミの心臓を持つストッパー」「敵チームのファンが喜ぶストッパー」 などと呼ばれ、不安を抱え続けるジャイアンツリリーフ陣のはしりとなった投手。 10年前、よもやタイガースに石毛が来るなどとは夢にも思わなかった。 石井とのトレードでバファローズへ。そしていつの間にかタイガース入り。 しかもちゃっかり優勝の輪に滑り込むそのしたたかさは伊達にドラフト外でここまでやってきた選手では ないということか。昨年シーズン前に『ZONE』という番組で放送された石毛のタイガース入団までの 道のりは、確かにかっこよく、「長くやってりゃそれなりの風格はつく」ということを体現して見せた。 (2004/2/29)
想い出の背番号48
久保 康生「ベテランの味」

76年バファローズ1位。88年タイガース入団。以降7年間、中継ぎとしてタイガースに貢献し続けた。 スライダー・フォーク・シュートを巧みにコースギリギリに投げ分けるその芸風はまさにベテランの味 だったが、私と同世代の人は「バファローズ時代は江川にも匹敵する本格派投手だった」 という話をさんざん親から聴かされたのではないだろうか?本格派投手は長くやりたければ、 久保を見習うべし、なのかもしれない。(2004/2/29)

背番号53
赤星 憲広「レッドスター」

2000年ドラフト4位。最早何も言うことはない。よくこの選手をノムさんは獲ってくれたと思う。 走れない阪神タイガースを大きく変えた、革命児と言っていい。 打力不足と言われれば、黙々と打ち込み3割を打って見せたその努力には感動せずにはいられない。 車椅子募金など社会福祉への貢献も素晴らしい。かっこいいぞレッドスター。 次はいかなる高みを目指すのか。セントラル初の4年連続盗塁王を初め、赤星の目標はまだまだある。 (2004/2/29)
想い出の背番号20
郭李 建夫「台湾の英雄」

背番号53は物凄い選手しかいないので(笑。
93年バルセロナ五輪で台湾に銀メダルをもたらした「台湾の英雄」。 150キロオーバーの速球で相手をねじ伏せるその投球は圧巻だったが、 タイガースに来てからは何故か140キロ前後しか出ず。 あまつさえスライダーもフォークも何もかもが同じ変化をするというヘタレぶりに一同愕然。 しかも何年かに一度は145キロを常時出せる年があったりと謎の多かった投手。 っていうか単にオフとキャンプの調整がヘタクソなだけだったんじゃないのか? 「90年代タイガースのハズレ助っ人史はウィンでもディアーでもなく郭李」と名言するえんめ氏の 意見はかなり正しいと思う。タイガース退団後、台湾野球界に復帰。145キロオーバーの速球で チームの優勝に貢献、MVPも獲得した。ヨカッタネ!昨年引退し、日本料理のお店を開くとか なんとか。ヨカッタネ!(2004/2/29)

背番号54
ジェフ・ウィリアムス「反則」

03年タイガース入団。前年ストッパーとして活躍したバルデスを解雇してまで獲ったのだが、 確かにそれは正解だった、と言える程、サイドからのスライダーは反則に近い変化をする。 元々はポートがストッパーでウィリアムスは中継ぎの予定だったが、ポートが予想通り どうしようもなく、ウィリアムスがストッパーに押し上げられる形に。 シーズン序盤はドラゴンズ岩瀬級とまで思ったが、後半からやや疲れが見え始めた。 それでも負けはたったの1。やはりそうそう打てるものではないことを証明した。 しかしできれば中継ぎで使いたいのが皆の本音であろうか。 (2004/2/29)
想い出の背番号54
平塚 克洋「アゴ」

89年ホエールズ3位。93年ブルーウェーブ移籍。96年タイガース入団。 某漫画の某キャラに似ていることから「梅さん」と呼ばれる。 広角に打ち分ける打撃は見事で、チームがチームであれば6番辺りを打たせていい味を出す選手として 後世にも名を残せたであろうが、タイガースのチーム事情によりクリーンナップを打つことが多かった。 実は勝負弱いところがあり、そういう点からもクリーンナップは不適正だったかもしれない。 99年、満塁で逆転のチャンスに代打で起用されるもゲッツーに終わり、その直後にライオンズに トレードされたあの一件はあまりにも印象的。今季からタイガース一軍打撃コーチ。 (2004/2/29)

背番号65
ジェロッド・リガン「最初からこっちで良かったですがな」

03年途中入団。開幕早々ポートに見切りをつけた星野監督はすぐさま代替要員としてリガンを獲得。 これといった特徴はないながらも、140キロ後半の速球とまずますのキレを持つ変化球で 中継ぎに不安のあったタイガースをしっかりとサポート。正に助っ人としての仕事を果たしてくれたと 言っていい。問題は、どっからどう見てもリガンの方が良かったのに、なんで最初はポートだったのか ということだが、まぁその辺はいろいろ事情もあるのだろうし気にしないことにする。 (2004/2/29)
想い出の背番号65
高波 文一「豪快若虎暴れん坊」

93年3位。昨季途中にライオンズへトレード。チーム随一の俊足で、いずれはトップバッターをと 期待され続けたが、打力が一向に伸びず、赤星の台頭により完全に出番を失ってしまう。 平尾との一・二番コンビを夢見たタイガースファンは数知れずだったが、その二人が今やライオンズで 一・二番を打つことがあったりで世の中分からないものである。 実は盗塁が下手だが、なんとかその部分で松井稼頭央の穴を埋めてもらいたい。 (2004/2/29)