タイガースと五月病

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昨年、タイガース優勝の可能性が公然と語られていることを受け、 FYTNレジュメの序文にてえんめ氏は「マリッジブルーの如き憂鬱」と表現した。 「遂に優勝してしまう」タイガースファンはその事実と向き合い、シーズンを過ごした。 そして、本当にタイガースは優勝した。日本一という目標は残されたが、我々は85年に 日本一は達成しており、実はさほど心残りはなかった。
そして今年。FYTN総会当日を、タイガースは貯金2、首位で迎えたが、誰一人そのことには触れなかった。 最早その程度では満足できないのである。他にも自分に起きている変化は多々ある。 敗戦後の自分が明らかに今までと違う。試合後に呆然としていることがなく、 『パワプロ』をプレーすることはなく、してもタイガースを使うことはなく、 「今自分が応援しなければ」という感覚はない。勝利の瞬間は、ぶっちぎっていた昨年よりは 圧倒的にうれしいのだが、敗戦の瞬間が妙にあっさりしている。勝負事である以上、負けは 必ずあり、敗戦をいかに楽しむか、乗り越えるかが勝負事を趣味とした場合の鍵であり ずっと楽しんでいくために必要なことと思ってきたが、今は、敗戦は無かったことにしてしまっている 気がする。「強くするためにはこうすればいい」というのを知ってしまったからか? 「負けに不思議の負けなし」とのむさんは言った。負けには必ず原因があり、それを克服することにより 勝利を掴むことが出来る。失敗は成功の素、ということだ。失敗要素が多かった弱小時代は、 それらを列挙していき、それらを克服する手段を論じるだけで時間が過ぎていった。 しかし今は失敗要素が数個しかない。試合後数分もしないうちにその論議は自分の中で完結してしまう。
無能で既得権益にしがみつくことしか能の無かった球団上層部、過去の栄光にしがみつくOBや ベテラン選手、お山の大将で偉そうに振る舞う中堅選手、無気力な若手。 かつてタイガースは我々にとって社会の縮図であり、タイガースというフィルタを通して 自己の人生と社会について考えてきた。 タイガースファンであることをアイデンティティーにまで昇華した結果だったが、 今まさに、「タイガースファンとしての性質」が、自分の中で変わりつつある。 これは、人生観そのものを揺るがす事態なのではないだろうか?
長年の万年Bクラス、最下位常連という状態から夢見た「常勝軍団」「常に優勝争いが出来る強いチーム」 その夢は、おそらく叶えられつつある。これだけイマイチイマイチと言われながらも、タイガースは 首位戦線に参加している。だが、そこにある現実は、夢見た程楽しいものではないのかもしれない。 優勝前の感覚が「マリッジブルーの如き憂鬱」なのであれば、 優勝後の今のこの感覚は「五月病の如き憂鬱」か。
FYTNの席でひでちんが 「よく『優勝したらチーム解散してもいい』と言っていたが、いざ優勝してみるとやはり連覇したくなった」 と言った。これは多くのタイガースファンが思ったことだろう。 そして、今やジャイアンツよりも客が呼べる球団として、タイガースは球界を支える立場になってしまった。 最早タイガースは関西でカルト人気を誇る奇妙な球団ではない。 「球界発展のためにパ・リーグに移籍してもいい」などという発言も許される球団になってしまったかも しれない。新生タイガースとそれを応援するファンとしての自分について、しばらく考えていきたいと思う。 (2004/5/6日記より転載)